昭和46年04月03日 夜の御理解
何の事でも稽古という事になると、同じ事だと思うんですけれども。やはり面白いとか楽しいとかという時ばかりじゃない。まぁ今日は一つ止めようかと信心でいうなら、今日はご無礼しようかと、言う様な時もありますけれどもね。やっぱりそこん所を辛抱させて頂くと言う事がまぁ一番大事。そこんところを疎かにするとそこから、こういわゆる今日はご無礼しようかという事が、だんだん大きな事になって、おかげを落とす元になって行く様に思うですね。
今朝からあの日田の、綾部さんがお参りになって、昨日日田から帰られたのか、福岡からここに寄られて、もう休まれた時に一時半であった。明日朝のご祈念にご無礼せにゃでけんと。まぁ実は、お願いもせずにそう思うて休んだ。そしたら今朝方からまぁあれが正しく神様のお声だろうかと思われるようにね、「大根をおろせ」と言うて、大きなお声を頂いたそうです。
びっくりして大根おろせとはどう言う事じゃろうかと思ったけれど、時間を見たら丁度4時。先生がちょうど御祈念の座についてござるなと思って、それからおかげを頂いてから、朝のお参りできたとこういう訳ですね。勿論その大根をおろすという事は、大根というのはほんなら今、綾部さん当りは、別に苦労があってある訳でなし。人間関係で難儀とか、金銭に不自由をしておられるという。
もう何も別に難儀はないのだけれども、まぁそういう事が難儀。まぁ大根というお知らせを頂いても、それでもやはり信心の稽古しておるからにはですね、やはり身を削ると言うですかね大根おろせと。いわゆる昨日は遅かったから、今日はご無礼しようと思うておるけれども、神様の方がご無礼させなさらん、いやむしろそれで却ってこう、本当に有り難いと言う様な事に。
神様がそういう働きかけを、何時も下さってあるんですからね。私達がもう本当やっぱあります、生身をもっとりますから、もう今日はご無礼しようかと。こうと決めておっても、それをまぁご無礼するような事になりますけれども、その辺のところを、大事にしなければならんと同時に、神様のそういうところを、大事にさせたいという様な働きを感じますですね。おかげ頂きました。